ひっくりかえした、宝箱。

この瞬間、きっと夢じゃない 。

きっとそこは夜明け前だったんだと思う。

 

 

きっとそこは、夜明け前だったんだと思う。

 

そこってどこ?ってなるだろう。

わたし自身、正直あまり覚えていないのだ。

覚えていないというよりも、白い紙を真っ黒に鉛筆で塗りつぶしたような感覚に近いのかもしれない。

 

いつかは書き残しておこうとおもったこの続きを、書いてみようと思う。

 

kii-kmpt.hatenablog.com

 

 

ちょうど1年前くらいの、肌にじっとり蒸した空気がまとわりつくような暑い日に、

パニック障がいと診断されたことは、覚えている。

当時社会人2年目のわたしには、あの子(パニック)をコントロールするような知識も術もなかった。

診断はパニック障がいだったけれど、適応障がい*1の傾向もあるため、まずは休職してストレスの原因から離れた方が回復が早いかもしれないと主治医に言われ休職し、実家の田舎に帰省した。

 

 実家に帰省してその数時間後には熱を出し、PCR検査をした。結果は陰性だったけれど、正直もう身体もしんどかったのかもしれない。

食べられないうえに、動けず、2週間ほどは布団の上からほとんど動かなかった。というより身体を動かす体力が底をつきていた。幼少期から身体を動かすことが好きで、高校時代までは運動部だったなんて信じられないほどである。

ひたすらこの頃は実家の猫と寝ていた。

寝たくて寝ているというよりも、薬の副作用で眠くて仕方なかった気がする。

 

そこから少しは動いたらと母にと言われ、家にあったウォーキングマシーンで10分歩くもまあへばってしまう。

身体は火照って、手足は冷えて、冷えのぼせ。冷え性の究極らしい。そんなところは進化しなくていいので早く症状が回復してほしいと思っていた。

 

そこからは月に2回の通院と1カ月に1回の産業医面談のために日帰りで都会に行った。新幹線も電車も乗っていることが耐え難く、ひたすら目をつむって耐えていた。面談の話も頭には入ってこないし、ふらふらするし。

誰かの話を聴くことが好きで得意だったのに、それさえも失ってしまったような失望感があった。

 

 パニック障がいといっても、個々に症状は異なる。

わたしの場合、主に夜に心中がざわつき不安になったり、身体的な痛みがどんどん脳内で膨れ上がるような恐怖感があったり、喉が詰まった感覚から息苦しさを覚えてパニック時の記憶がよみがえったり。

特に聴覚過敏になった。大きい音はだめ、音楽も聴けない、換気扇の音も、救急車のサイレン音も、風も、人の声だって、全てが鋭い針で突き刺されて熱い痛みが走るような感覚に襲われてしまう。

死にたいとは思わなかったけれど、生きていても、くるしい しかなかった。

 

前はおいしく食べることが大好きだったのに、何が食べたい?って聞かれても、食べたいものなんて浮かばないし、食欲はないし、食べてもすぐにお腹いっぱいになってしまう。この頃は、母を食事のことで怒らせてしまうこともあったし、わたし自身なんで食べられないのかわからなくて、そんなことも悲しかった。

 

正直、人が抱えている生きにくさは、他の人にはわかりにくいんだと思う。

だから生きにくさっていうのかなと考える。

隅々まで理解してほしいとは言わないけれど、ただ、否定しないでほしかった。

むずかしいんだよね。お互いに。

 

病気になって、この頃のわたしは特にこどもっぽかった。よく泣くし、いらいらしたり落ち込んだり、わがままいったり。

だから、ごめんねって母に謝った。そしたら、子どもの頃は手がかからなかったから、今はその分手がかかってるだけじゃない?なんて笑ってた。

前述した食事量も、母が少しずつ調整してくれたり、時には一緒に料理もしたりするうちに、以前の半分くらいまでは食べられるようになった。

なんだかんだ、母は偉大だなと思う。

 

休職して3カ月は、動くパワーに余力がつくまではしてみたいことしかしなかった。晴れた日に散歩して、猫と遊んで、母と料理をつくったり、手芸をしたり、庭でブルーベリーを摘んでジャムにしたりハリーポッターの小説を全巻揃えて読み返してみたり。

 

 実際、わたしの務める会社は2カ月欠勤扱いをしてから休職なので、10月からが休職扱い。そこから入社してそこまで時期の経っていないわたしの復職までの期限は3カ月が目安。とりあえず、体力だけでもやや回復してきたので、ひとり暮らしの環境にも戻して負荷をかけたらどうなるか様子をみて復職するか判断することになった。

 

産業医面談では、自分のベストが10だとして、8か9にならないうちに復職するとまた休職する人が多いと聞いていた。休職して3カ月のわたしはこのとき4だと答えていた気がする。

カレンダーアプリに発作や発作の予兆、体調不良などを記録していたのだが、当時は毎日何かしらの不調があったようだ。だいたい夕方から夜に発作の予兆を感じている記録が多い。

 

いきなりひとり暮らしの環境に戻すことは大変なのはわかっていたので、2週間を目安に往復していた。

実家のメリットは誰かがいる安心感、デメリットは生活音が負担なこと。

ひとり暮らしのメリットは自分だけの時間があること、デメリットは負荷が大きいこと。

どちらを選ぶのもなかなか難しい選択だった。今の会社に復職するならばひとり暮らしの環境で、実家に帰れば職を探すのが大変である。お金がなければ生きていくのは難しい。しかし、症状はまだまだ改善の兆しが見えないと悩んでいたのが11月上旬。

 

そんな時期に、大学時代の先輩であり、お世話になっている方から連絡があった。

気晴らしに地元においでよと。

正直やや長い時間乗り物に乗れるかわからなかったが、先輩に会いたい一心でその月の下旬に2泊3日の旅に出た。

身に凍みる寒さも吹き飛びそうな迫力ある山々が出迎えてくれた先輩の地元は、私の地元とはまた違った自然のよさがあった。

城下町を散策し、食事もし、たくさん話をした。

先輩は、ただただ聴いてくれた。

ここには書かないが、先輩もわたしと似たような経験をしていた。

旅行中に発作っぽくなれば落ち着かせてくれたし、極め付けには、わたしが迷惑かけてしまうかもしれないと謝れば「大丈夫、ほっておくから(気にせず休みなさい)」と。

目から鱗とはこのことかもしれない。人に寄り添うって、かまうだけじゃないんだと。先輩はいつまでもわたしにとって憧れの先輩である。

 

あおい空気を肺に流しこんで、みずみずしい食物を血に変えて、

ぐるぐる体内循環させた、この旅。

喉にひっかかっていた言葉が零れ落ちていました。

 

仕事、やめてもいいのかなあ。と。

わたし、こんな環境に身をおきたい。と。

 

この旅で得たことは色々あるけれど、

今あるものにしがみつかなくてもいいと思えたということ。これが大きい。

 

そんな旅を経験して迎えた2021。

相変わらずウイルスは猛威を振るっているし、季節は新春。

ここら辺から、自分のなかで考え方が変わってきているなとnoteの文章なんかをみると思う。

自分は代替できない存在で、もっと自分を大事にして生きていきたいと記してある。

誰かのために役に立っている事実でしか自分のことを認められなかった自分にとっては大きな一歩。

 

今年の1月中旬、私は会社に呼び出された。

今後の話し合いである。

正直、ここで退職の勧めを受けるのかと思っていたし、そのつもりだった。

しかし。会社が提示したのは、よかったらまだ一緒に働きたいと。若いし先は長いのでもちろん強制はしないが、ゆっくりで良いので復職の準備を進めますか?と。

 

前述のように、わたしは仕事をやめてもいいかなと思っていたので、固まってしまったが、何をするにもお金はあった方が良いし、実際まだ一緒に働いてみたいと思う先輩方がいらっしゃったので、断る理由は少なかった。

 

 そんなこともあり、復職してからは新しい部署に同期よりも一足はやいタイミングで仮配属になった。

配属時の部署長は人事がお前が(病気のため)拠点に配属できないって悩んでいたから俺が拾ったが失礼かもしれないが俺はラッキーだったと思っているとよく言っていた。

どうやら以前別の業務で仕事をした際に褒めていてくれたらしい。知らないところでも見てくれている人はいるんだなとありがたく思った。

 

もちろん、復職してからもパニック障がいはおさまったわけではないし、在宅勤務に難を示す上司もいらっしゃらなくはないし、薬も飲みながら、生活にも気を配りながら過ごしている。

 

あの先の見えない昏い闇から一年。

とある小説を読んだ。

帯にこんな言葉が書かれている。

 

知ってる?夜明けの直前が一番暗いって。

 

今、わたしが間違いなく言えることは、

パニック障がいになって辛いことがたくさんあったけれど、それがなかったら今、わたしはこんなに世界に対して光を感じていないということ。

少しずつ、少しずつだけれど、わたしの今見える景色はあかるいです。

 

長くなってしまいそうなので、とりあえずここまでにします。

取り組んだこととか、今の生活とかもかまたかけたらなあと思います。

 

最後までよんでくださったあなたが、明日を明るく迎えられますように!

 

 

*1:日常生活の中で、何かのストレスが原因となって心身のバランスが崩れて社会生活に支障が生じたもの。原因が明確でそれに対して過剰な反応が起こった状態…厚労省HP

優しい心と夜と。

 

道端にオレンジ色の小路ができていた。

ほのかに薫る甘く惹きつけられるような金木犀もすっかり散ってしまった。

 

そんな景色も香りも、今はない。

 

ここにあるのは、夏から秋へ、そして冬に近づく匂いだ。

 

衣替えをせねばと衣装ケースを引っ張り出すと、「あの舞台を観に行ったときのワンピースだなあ」とか、「これは年明けのコンサートに着ていったワンピースだ」とか、そんなことばかり思い返す。個人的に、大切なお洋服はワンピースが多い。

 

衣替えをしながら、久々におたくとしての自身の心の整理もしようかなと、ここに来て、ほんの少しだけ、キーボードをなぞる。

 

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 2019年12月の上旬、だったと思う。

何気なくつけたテレビに映し出されたのは、とある男性アイドルのオーディション番組の最終回。「ああ、これがツイッターのタイムラインでフォロワーさんがお話していた噂の日プ*1か」なんて、なんとなく見ていたのである。

 

J界隈でおたくをして10年選手、K-POPのKの字も触れたことのない私にとって、ただ傍観していた。するつもりだったのだ。

 

しかし、ここで思わず前のめりになるほど「気になってしまった彼」がいたのである。

 

繊細で儚げな少年美、透明感のある白皙と対になる爽やかで柔らかい黒髪、一瞬で魅せることのできる表現力と昇華力。

 

 『画面の奥の、貴方はどなた……?』

 


PRODUCE 101 JAPAN|♫YOUNG@#12 デビュー評価

 

これが、宮島優心さんとの出逢い。

 

「これが彼にとってアイドルとしての序章の序章であってほしい」

「いつかまたステージに戻ってきてくれたらファンというかたちで応援したい」

 

"推しは推せるときに推せ"という言葉が身に沁みた冬の冷たさ。

 

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あれからもうすぐ1年が経とうとしている。

世の中の流れも、わたし自身も、様々なことが変化した。

 

そしてまた私の人生に新しい経験が刻まれようとしている。

 

「応援している人が、デビューする瞬間を見届ける」

 


ORβIT「UNIVERSE」MEMBER TEASER #3

 


ORβIT「UNIVERSE」M/V (full ver.)

 

 

きっとたくさんの選択肢があるなかで、この道をメンバーと歩むことを選んでくれたこと。それに対する感謝の気持ちをどう言葉にしてよいものか、わからないままではある。

 

そのかわりに、大事なデビューアルバムの「OO(オーツ―)」たっぷり聴きますね。

 

Hightlight Medleyで、すでにこちらの緊張感、高揚感は高まっており、来る11月11日に随喜の涙が心の器から溢れそうだなんてことは、どうかご内密に。

 


ORβIT DEBUT ALBUM「00」Highlight Medley

 

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「I’m happy to be myself.」

 

素敵な夢の一歩へ。

その道を照らす存在に少しでもなれたら。

人の気持ちに繊細で、想いが真っ直ぐな貴方の周りにたくさんの愛が在りつづけるよう、夜空に願おう。

 

 

 

*1:PRODUCE101JAPAN

あの子の息遣いとおたくの夏の記録。

 

言葉にするかどうしようか、

打っては消しての繰り返しをする日々だった。

こわかったのだ。

でも、ゆっくりと深呼吸をして、

一歩だけ足を踏み出してみようと思う。

久々に文字を打っているので、

どきどきしているうちに乾いてしまった唇を

キュッと噛みしめていた。

そのピリッとした感覚に、

"生きている"と実感する瞬間があった。

 

 

 

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「診断結果は、 パニック障害 です。」

 

新型コロナウイルス対策のためであろうアクリル板の仕切りに隔てられた小さな部屋で、先生からそう告げられたのは6日前のことだった。

 

 

パニック障害とは】

突然理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、吐き気、手足の震えといった発作を起こし、そのために生活に支障が出ている状態をパニック障害といいます。

このパニック発作は、死んでしまうのではないかと思うほど強くて、自分ではコントロールできないと感じます。そのため、また発作が起きたらどうしようかと不安になり、発作が起きやすい場所や状況を避けるようになります。とくに、電車やエレベーターの中など閉じられた空間では「逃げられない」と感じて、外出ができなくなってしまうことがあります。*1

 

 

ただただ静かに頷きながら、先生のお話をきいた。

聴いていたつもりだったけれど、今の私の頭は入ってくる耳慣れない情報の物質をうまく噛み砕いて溶かしてくれなかったらしい。

内服治療のお話とか、これからの仕事の向き合い方とか、どうしていこうか?とたずねられたけれど、首を斜めに傾けても何も出てこなかった。そんな私に対して先生は、「ゆっくり考えていけばいいからね」と、声をかけてくださったことだけは覚えている。

 

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はじめてのパニック発作は脳にはっきり焼きついて離れない。

2年前の夏だった。じっとりと湿った雨上がりの暑さが身体にまとわりつく。今務めている会社の内定者懇親会。初めて顔を合わせる役員の方や先輩、同期。緊張もあったが、楽しく談笑して過ごしていたはずだった。

 

しかし突然"あの子"はやって来た。

 

もともとアルコールに強くはないけれど、グラス1杯くらいなら全く問題なかったのに。

あれ、おかしいなドキドキする。

喉がつまる。

目眩がして視界が霞む。

呼吸が上手くできない。

自分が自分じゃなくなってしまうのではないかという恐怖が身体につき離れない。

焦れば焦るほど、

あの子は私を苦しめた。

嘲笑うかのように。

 

 

あまりの様子に救急車を呼ぼうかと言われたが、入社前にそんな迷惑かけられないという気持ちのが大きく、同期に支えられながら御手洗に行き、必死に自分に対して「落ち着いて、もう大丈夫だから、お願い、あなた はどこかにいって」と訴えかけた。どうにかおさまるまで15分くらいだったと思う。人生でいちばん長く感じた15分だった。

 

それが あの子 との出会いである。

 

そこから年に数回、あの子 は突然私の前に現れるようになった。気まぐれに。 最初の発作があった会食のような場、カラオケ、カフェ、会議室、ついにはコンサート会場に劇場まで。

 

そのたびに、私は あの子 と交渉しなければならなかった。

どうして今現れるのか。

どうして大切な時間を奪っていくのか。

乱れた呼吸と朦朧とする意識のなかで、あの子に心身が侵食されていく感覚は、私に死に対する恐怖を植えつけじわじわと根をはらせていた。

 

この時点で病院に行っていればよかったのではないか、と思う方もいるだろうし、もしも次に、あの子 が現れたらいくべきかなあと考えていた。しかし、問題があった。

 あの子 は本当に気まぐれな性格だったのだ。

 

目を閉じで あの子 に対して大丈夫、大丈夫だから......といいきかせれば機嫌がよかったのだろうか、そこまで暴れず数分でおさまることが多かったり、どこかに旅にでも行ったかのように数ヶ月現れなかったりなんてこともあった。

 

だから、新幹線や夜行バス、電車に乗り、趣味の小劇場を中心とした観劇にも、アイドルのコンサートにも足を運んでいた。お友達と美味しいご飯を食べたり遊んだり。時々胸がざわついて発作が出そうだなと思った時もあったけれど。異変に気づいていた友人もいたかもしれないのかな。でも、全部どうにかして過ごせてしまっていた。

 

 

そんなことをしているうちに

いつの間にか薄れていたのだ。 

あの子 の存在が。

そんな簡単には離してくれないってわかっていたのに。

 

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2020年6月初旬。

気温差の激しい日が続いていた。6月にしては気温が高く、まだ身体が暑さになれていないから熱中症に警戒するよう気象予報士の方がお話していた記憶がある。新型コロナウイルスの影響で外出自粛やテレワークが推奨されるなか、5月から配属された研修先に片道1時間半弱かけて通勤し、日々業務に取り組んでいた。仕事は施設内を歩き回るため、体力は多少使うものの新しいことをするのは新鮮だったしそこまで苦には感じていなかった。

 

それでも知らぬ間に、私の身体はストレスというものを溜め込んでいたらしい。新しく覚える業務の連続、同年代や同性のいない職場、暑い外気と寒い事業所の温度差、職場で絡み刺し込まれる結婚やお金など仕事に関係のない話、先の見えない新型コロナウイルスの恐怖と通勤時間と満員電車、などなど......ちいさなことが積み重なっていった。

 

そしてそんな煙たいにおいを嗅ぎつけたのか、 あの子 がまた背後にせまっていた。

私は気がつかなかった。

 

それは、昼休憩のご飯を食べている時だった。

食事中に寒気がした。きっと事業所がまた寒いからだろうと上着を羽織って食事を再開するがなんだか動悸がする。脈がはやい。風邪?まさかあのウイルス?色々な不安がぐるぐると頭を駆けめぐった。喉がつまった感じがする。ご飯をまだ3口程度しか食べていないのにお腹いっぱいな気がする。胃が重たい。

 

嫌な感覚が身体に染みついたまま、午後の作業に取りかからなければならなかったのだが、30度近い気温にも関わらず上着を羽織り寒がる私をさすがに先輩方が心配し、とりあえず作業現場の屋上にいるだけでよいからと、屋上で1人先輩方の作業が終わるのを待っていた。

 

屋上には給排気や空調に関わる設備が多くあり、かなり大きな音がする。普段ならばそこまで気にならないのであるが、あの日はちがった。

1人だけぽつんと立ったている屋上、空気が循環する音が響き渡る。

 

「あ、この音だめかもしれない.......」

と思った時には遅かった。

 

あの子 が突然暴れだした。

 

動悸、息切れ、目眩、寒気、自分をコントロールできない恐怖感。

助けを求めようとしても近くに人はいないし、呼吸が乱れて息苦しい。

死んでしまうのではないかと怯えながら、

その場にしゃがみこんで、

ただひたすら あの子 が落ち着いてくれるまで

耐えるしかなかった。

 

しばらくして先輩方が戻ってきた頃には呼吸はやや落ち着いていたが、今までにない倦怠感と息苦しさが残っていたのでその日は早退させてもらい、おぼつかない足取りで電車に乗り、やっとの思いで帰宅した。ベッドに倒れ込んで肩で息をするのが精一杯だった。熱は無いが新型コロナウイルスだったら...と念の為、保健所にも連絡したが、様子を見て医療機関を受診してくださいとしか言われなかった。(それはそうなのだが。)家に置いてあった経口補水液を口に含み、目を瞑った。ただただ落ち着くことを願って。

 

次の日、呼吸はできてきた。

生きのびたと思った。(大袈裟かもしれないが)

ただ、頭では仕事に行かなければならないとわかってはいるのに、身体が重たい。

お腹が空かず、ご飯も喉を通らない。

脱水症状か、やたらと口が乾いていた。

職場に休みの連絡を入れ、横になった。

 

動けるようになった頃に消化器内科を受診し、ストレス性の胃腸炎だろうと言われた。処方された薬をのみ、ご飯は食べられそうなものだけを食べた。その後はだいぶご飯が食べられるようになったので、もうそろそろ治っただろうと思っていた。この頃は。

 

あの子 がいつもより長く横によりかかっていたことが気にかかっていたのだが。

きっとこの時も、まだ あの子 は身体を蝕むように根を張り続けていたのかもしれない。

 

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1週間で消化器内科の薬をのみ終える頃には、かなり元気だった。通勤し、以前のように業務に取り組んでいた。

 

はずだった。

 

数日後、

あれ?胃が重たい。また食欲不振になった。不安を感じると喉がつまって息が苦しくなる。口が乾く。身体が火照る。と思えば、寒気がする。職場の方が長袖を腕まくりして扇風機を回す中、私は長袖に上着を羽織り、ブランケットを抱える。体温調節のネジがおかしい、まるで1人冬の装い。

加えて、誰かの高笑いや独り言、怒った声、機械音、電車内の会話、空き缶をカンカン机に叩きつける音、周りの生活音がやたら気になる。というより、耳に入ってくるたびにイライラしたり、集中できなかったり。音に敏感になった。

 

そんな日が4日ほど続き、心身が衰弱していった。食べ物を見ても美味しそうに見えない。大好きであれほど応援したいと思っていたアイドル・アーティストを見る余裕もない。音楽も聴くことができない。自分ではどうしてよいか分からなくて、歳の近い人事の先輩にとうとう泣きながら電話をかけた。

ご飯がほとんど食べられないこと、このままじゃどうなってしまうのか分からず怖いこと、仕事は嫌いじゃないのに行かなければと思うほど息が苦しくなること。

他にも話した気がするけれど、とにかくこの状況から解放されたい気持ちでいっぱいいっぱいだった。

 

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先輩に話を聴いてもらった後、テーブルの上にはくしゃくしゃになったティッシュが積み重なっていた。誰かの前で悲しくて苦しくて泣くのは好きじゃなかったから、こんなことは初めてだった。

 

数日後、会社と産業医の先生と面談し、自律神経の乱れと音に敏感になっているからまずは心療内科(精神科)の受診の指導を受け、あの子の正体はパニック障害 だと正式に診断されたのである。

 

今回は環境の変化(仕事関係や気候、コロナウイルスなど)を中心としたストレスによる自律神経の乱れにより、短期間に連続した発作や症状が起こることが原因で、あの子 がどうやら根を急速に成長し続け、心を覆いつくし、貫通させてしまったらしい。

私の場合は、今まで忙しさで寂しさを埋めてきた(気付かないふりをしてきた)ような人間だったらしく、外出自粛や研修の身のため業務が早めに終わり余分な時間が増加したことより、寂しいことや不安なことを考えることが増えたことも悪化に繋がっているそうだ。

 

あの子 根を取り除くには、あの子 の好物であるストレス状況から遮断することが最も短期間で改善する1つの選択らしいが、今後のあの子 仕事との向き合い方は経過をみてゆっくり決めていきましょうということになっている。

 

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落ち着かずしんどい時もあるが、とりあえず電車には乗ることができている。研修も配慮してもらい、できることだけやらせてもらっている。

 

ただ、薬の影響もあるだろうからと、1週間会社がお休みをくれた。(できるかぎり不利にならないようにするという優しい言葉の配慮付き。有難いことである。)社会人の夏休み残り2日。今は実家で澄んだ空気を吸い、猫のふわふわとした頭を撫でながらこの文章を綴っている。

 

不安はもちろんある。

これからのこと。

あの子 といつまでおつき合いしていくのか。

わからないことだらけだ。

 

でも、

大きくなった あの子 に対して絶望感より、2年経って、私がようやく向き合う姿勢ができたと感じる部分が大きいかもしれない。昨晩だってあの子 が悪戯をしに来ていたけれど。

どうしたら 仲良くしてくれるかな。

 

 

 

きっとこの文章を読んでくださったのは、Twitterのフォロワーさんが中心だと思うので、私からの願いを書いておきます。

 

ご飯が美味しく食べられるうちに食べて、

身体が動かせるうちにたくさん動かして、

笑える時に笑って、

誰かとお話をして、(お手紙なんかもいいね)

心と身体の健康につとめてください。

あ、でも無理はしないでくださいね。

心身の健康より、

大切なものは恐らくありません。

 

 

そして、いつも優しく見守ってくれているお友達の皆さま(フォロワーさん)、ありがとうございます。特に、SNSを見ることも避けていた時に心配してお手紙をくれたり、メッセージをくれたり、サプライズでプレゼントが届いたり。ゆっくりにはなりますが、愛をお返しさせてくださいね。

 

 

それでは、長くなってしまったので本日はここら辺で。

今まで観劇したチケットをノートに整理してこよう。

次、劇場やコンサートに足を運べるのはいつだろうか。

 

 

 

彼らの息遣いを、

肌で感じられた日が恋しい、

そんな夏 。

 

 

霞んだ景色の片隅で。

 

社会人2年目。世界は目まぐるしく変わる。日に日に増えていく感染と死にまつわる数字。それでも、ガタンゴトンと揺れ動く四角い箱と家との行き来を繰り返す。「まだ働ける場所があるだけよかったね」、なんてメールが届く。たしかにそれはそうかもしれないのだけれど。どうしてだろうか、なんだか息がくるしいのは。毎年地元の家の近くにはこの時期薄紅色した桜が満開で、今年は連休が取れそうだから帰ろうかな。なんて思っていたけれど、そんなわけにもいかなくなってしまったから。だいすきなアイドルにも会えなくなってしまったから。思わずため息がこぼれてしまう。

 

 

春はよく涙をこぼす季節だった。大切な仲間とのお別れ。何があろうとステージに立ち続けようとする精神。幕開け真紅の大階段の頂にひとり堂々と立つ姿。眩い輝きのオリジナル曲に融合してメンバーと放った飛び立つような圧倒的な存在感。大吾くんを観てきた思い出を、あまじょっぱい涙で煮からめて、宝箱に入れられるように固めてきた気がする。

 

 

今年の春は、念願の東京で。

 

でも、祈っても抗えないものはある。ポッキリと折られた思いは行き場を失って彷徨い果て、一面に霞が籠む。

 

何度目のため息か。通勤の帰り道、視線を下げたそんな時だった。足元にはぷっくりとした真っ赤な花。と、同時に脳裏に蘇るはあの一面赤で染められた光の景色。だいすきな貴方を、なにわ男子の赤色を背負って立つアイドルとして応援できたあの日の景色。忘れられないよ。

 

 

君が居てくれたら (今)
もっと強くなれる (Future)
必要な力なら 全て求めよう

 

そう歌う貴方に。あの日の景色のような力強く温かく、やさしい、でも絶えない灯火を。どうかこれからも届けていきたい。関西ジャニーズJr.で、同期がこのメンバーで、なにわ男子で、よかったって。これまでもこれからも思ってもらいたい。アイドルとして生きる貴方が在ることのできる理由がいっぱいつまっているはずだから。もちろん全部はこちら側からは見えないけれども、貴方の行動を、言葉を、仕草をみていればわかる気がするよ。アイドルになってくれてありがとう。アイドルを続けてきてくれてありがとう。

 

霞んだ世界でも、晴れた日常の春を思い出させてくれた貴方に感謝をこめて。贈ります。

 

赤いチューリップの花言葉のひとつ。

「believe me(私を信じて)」

 

そんな言葉を自信を持って届けられるように応援したい。そんな花言葉で溢れた、貴方が愛おしそうに見つめる真っ赤なチューリップ畑の景色を届けてあげたい。7人でどこまでも天高く飛び上がろう、まっ黒な闇も手を出せないような世界に。夢掴んで、花咲かせようね。

 

大吾くん、入所9周年おめでとう。

 

 

輝くあなたの灯火に

 

鏡に映るように、瞳のなかに映っているのはゆらゆらと揺れる淡いオレンジ色の灯り。ゆっくりと1音1音を確かめるように刻まれるギターの音色。喉から発せられ空気の密度の濃淡が、周りの空気を振動させて波が生まれる。その波にぷかぷかと浮かんでいるかのように身体をあずけて揺れるだいごくん。以前より体つきがしっかりしてきたとはいえ、おおきな会場のステージに立つ姿はやはり小柄で華奢だ。

 

小さな肩に背負い込んだ僕らの未来は

 

だいごくんがオレンジで歌うソロパート。恋愛ソングとはいえ、どうしても目の前にいる彼らに重ねてしまった。

 

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舞台やコンサートに行くのが怖い。

 

そんな感情が芽生えてから1年が過ぎる。ちょっと個人的なお話になってしまう。ある時から動機や息切れを感じやすくなった。特にそれ以外に何もなかったのであまり気にしていなかった。運動不足くらいにしか思っていなかった。しかしある日、とある懇親会に出席した際、突然動機や息切れを起こした。自分で何とか落ち着けようとするも、めまいや寒気で視界がかすみ、自分が自分じゃなくなってしまうような感覚に襲われた。結局、それは10分程度で治まった。しかし、この日から薄暗い密室のカラオケルームや煙たい居酒屋、緊迫感のある会議室、満員電車など、閉鎖された空間にいると、前回の発作が起きたらどうしよう、自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖や不安に駆られるようになった。

それは閉鎖された空間である舞台やコンサートも同じだった。大好きなアイドルのコンサートに行くことや小劇場を中心とした観劇が好きな自分にとって、何よりいちばんつらかった。もうだいごくんにも、会いに行けないのかなと考えて泣いたこともある。

でもやっぱり、泣いてばかりじゃいけないと、そう思わせてくれたのはだいごくんだった。落ち込んだとき、かなしくなったとき、いつもHug&Smileの文章*1を読み返す。わたしにとってのおまじないのような存在だ。そのたびに、だいごくんは本当に心強いひとだなと感じる。以前に比べたら発作の頻度は少なくなっているけれどまだ発作は完全には治まっていないと思うし、いつ起こるかもわからないので、じっくりお付き合いしていかないといけない。でも、だいごくんのいる現場では起きたことはないので、これも不思議な力なのかなあ。

 

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そう言えば、22歳を迎える前日に更新された日刊なにわ男子のだいごくん 、 「(前略)心配しなくて大丈夫だよ」 なんてことを書いていた 。

 

そんな日から約1年が経とうとしていた先日のなにわ男子がはじめて単独で行ったツアーの追加公演『なにわ男子 First Live Tour 2019-2020 ~なにわと一緒に#アオハルしよ?~ in大阪城ホール』のオーラス。

 

22歳最後の公演。本編最後の挨拶。

空を仰ぎ、ぎゅっと噛みしめた唇から、ぽつりぽつりと零れてきた言葉。

「去年、正直ね、楽しかった、の気持ちが1番なんですけど、これは西畑の問題ではあるんですけど...ステージに立つのが怖かったときがあって...」

 

 

 

やっと吐き出せたのかな、やっとそういうことが言える場の温度になったのかな。心配しなくて大丈夫だという言葉の奥で、小さな身体で色々な思いを抱えていたのかな。そう思うと、ごめんねって思いで感情が溢れてしまった。けれど、だいごくんは、こう、言葉を続けた。

 

「でも、一年経ってほんまに楽しくて、毎日が本当に幸せです。」

 

涙が頬をつたう。ただ、かなしい涙だけじゃなかった。きゅっと口角をあげて、とても穏やかな表情で、今が幸せだと言葉にしてくれた。抱えこまずに、弱いところも見せてくれるだいごくんに対して、よかったと安堵した。だいごくんがそういうことを言える場の温度や時期がやっときた。「みんなおいで~〜。涙」ってメンバーを呼び寄せて肩を抱き、泣き腫らした目で、こうやって誰かが横にいないとやっていけないというか...とほろほろ目からあふれた思いがたくさん伝わってきて。ぎゅっとまるごとなにわ男子のことを抱きしめてあげたかった。前だけを見てここまで駆け抜けてきた彼らにもっと甘えていいんだよって言ってあげたかった。

 

でも、泣ききったあとにはもう、

「皆さんの夢が僕たちの夢で、僕たちの夢が皆さんの夢です。」

 

「ジャニーさんがつくってくれたこのグループ、メンバー、グループ名を大切にして、これからもなにわ男子一同本気で、デビュー狙いに行きます。」

決意の言葉を口にしていた。

 

だいごくん。

愛されるグループになりたい、なりますと綴ったあの日から、ここまで本当にすごいスピードで駆けてきたね。「なにわ男子のため、関西Jr.のために」という軸は変わらないところもだいごくんの好きなところです。だからその分、なにふぁむがだいごくんのことを大事にします、いいかな。アオハルツアーで見てきたペンライトの灯火の数々は、ちゃんとあなたが愛されている証です。真っ赤に染まったチューリップ畑、もっともっと見ていこうね。アイドル西畑大吾くんを応援できるのは、だいごくんがどんなときも、ステージに立ち続けてくれるからです。本当にありがとう。身を削りきらきら輝くあなたの少しでも味方で在れたら、しあわせです。

 

23歳、素敵な1年になりますように。

なにわ男子の夢、わたしたちの夢、叶えようね。

 

 

 

 

 

明けない夜はないよ

 

 

*1:胸が苦しくて眠れない夜だって、
心が張り裂けそうになることだって、
なんだってある。
それでもいい。
あなたがいてくれて、
あなたが笑っているだけで、
ぼくはそれだけでいいんだ。
それだけで心が洗われる。
明日に向かって強く生きようって思える。


あなたがもし、
ぼくと同じようなことになったら
次はぼくが側にいるよ。
あなたのそばで笑っているよ。
あなたがぼくにしてくれたように。
物理的に近くにいられないかもしれない。
でも、ちゃんと気持ちは側にいます。
だから笑っていよう。


つくづく愛に包まれ、守られている。
それは家族、友達、仲間がいるから。
そしてあなたも。


キレイ事かもしれないけど、
愛は性別だって、年齢だって、国境だって、
なんでも超えていく。
人生、別にキレイ事でもいいじゃない。
それであなたも幸せなら。


いつもありがとう。
これからもありがとう。
あなたにHug&Smileを。


Letter by 西畑大吾

勇気の軌跡と365 。

 

 

 

僕ら出逢って未熟な季節

それが遥かな物語になる可能性を誰が否定できるの?

 

無機質なイヤフォンから歌詞が入りこんでくる。

ありふれた日常に、とあるグループが産声をあげた。

それから月日を重ねた。数字にすると、 365 。

 

昏い色をした棘が彼らをいつか引き裂く傷になってしまうのではないか、と感じるくらいに、まだその数字がはじまったばかりの、あのときの空気は息をするのが苦しかった。

 

それでも、時間がかかってもいいから、"皆さんに愛されるグループになりたい"と前だけを見据えて離陸したプラチナのジェット。もちろん、ひとりだけじゃない、夢や絆や涙も乗せて。

 

365の数字に行き着くまでに、7人には、どんな感情が沸き起こっただろう。どんなことを思っただろう。月明かりが一筋の光を描いて丸い窓からさしこむ夜、どれだけ想像しても正解なんてわからない。

 

自分の目で、耳で、肌で、頭で。観て、聴いて、触れて、感じる。その瞬間の、彼ら。それを味わうことができるなら、それでいいじゃないか。と、思えるようになるくらい、なにわ男子が愛おしい今を大切にしたい。

 

ただ、今はそれだけでもじゅうぶんにシアワセなのに。愛そうとすればするほどに、彼らは両手じゃ簡単に溢れてしまうほど愛をくれるのだ。本当に驚いてしまう。彼らのどこに一体そんなパワーがあるのだろうか、と。

 

はじまりは「大吾くんがいるから好き」になったなにわ男子のこと、今やメンバー全員包み込んで、「なにわ男子がだいすき」で仕方がない毎日になっている。メンバーになる前には知らなかった魅力的なところだってある。

 

笑顔が素敵ってこういうことなんだろうなというくらいに笑顔が眩しい大橋くん。温かい人柄に包まれたら誰しもが彼に心を開いてしまう。大吾くんもきっとそのひとり。だからこそ、舞台に立つとその場をのみこんでしまうほど空間を支配する技巧派な彼に堕ちていく。そんな大橋くんがなにわ男子のリーダーだからこそ、きっと素敵なグループになると思えるのだろう。

 

誰にも負けない経験値と培ってきた技術。なにわ男子の大黒柱。大吾くんとはグループを引っ張る必殺仕事人コンビ。丈くんが生みだす笑いには人を心から笑顔にさせる愛がある。おもしろいのにかっこいい、クラスの中心にいるようなムードメーカー。彼にコイゴコロを抱く。この気持ちは愛情なのか、憧れか。藤原丈一郎ってノートの隅に落書きしている人、いるんじゃないかなあ。

 

以前は大吾くんに似ているところがあるかなあといちばん感じていた長尾くん。最年少らしくあどけないいたずらっ子のような弾ける笑顔とは裏腹に、織り成すセンスの高さ、触れた途端に壊れてしまいそうな儚い表情が群を抜く。志高く、大きな夢を掲げて突き進む地点を示す。一度でも気になったら離れられなくなる魅惑のワイルドカードのような存在感。

 

個人的にいちばん印象が変わったのが恭平くん。どんなことを考えているのかわからなかった。けれど知れば知るほど彼の前向きさに、支えられた。たくさん助けられた。なにわ男子に対するどんな声だってどんと受け止めようとする姿勢。あの大吾くん相手にも圧倒的な勢いで相手との壁を打ち砕く対人力は裏表のないであろう彼だからこそできる技。愛すべき等身大のはにかむ笑顔が心を擽る。

 

溢れ出る透明感と華のある道枝くん。自分の考えていることを、気持ちをしっかり周りに発信することができるからこその信頼。こだわりが強いからこそ安心できる信頼。この信頼性がなにわ男子を厚くする。すらっとのびた背はいつの間にか大吾くんよりも大きくなってしまったけれど、メンバーになってからは特にわんこのように大吾くんに懐いてくれていることに喜びを感じる。

 

大吾くんとまた一緒にメンバーとしていられること、その有難みを何度噛み締めたことだろう。カメラが切り替わる時すでに彼の視点がこちらに向いていなかったことはあるのだろうか。咄嗟の判断力が天下一。瞳の中に星の煌めきが宿っていると本気で思ったのは後にも先にもきっと、大西くんだけだろう。愛をたくさん注がれて育った関西の希望の星。

 

そして最後に、大吾くん。親鳥が羽を広げて子を守るように、なにわ男子を守りながらさらに羽ばたこうとする人。それは自分の身を犠牲にしてでも。ほしいときにほしい言葉を、自分の言葉で届けてくれる人。貴方の言葉には、よく考えていないなんて過程は存在しない。本当によく考えていると思う。その言葉に救われた人はちゃんといます。少なくともここに。

 

深く閉ざした あの暗雲やがて 光の意思に霞んで

一筋の奇蹟を示すから 自分信じて この運命を輝かせよう

 

無機質なイヤフォンから歌詞が入りこんでくる。

ありふれた日常に、とあるグループが産声をあげた。

それから月日を重ねた。数字にすると、 365 。

 

この数字がいつまで積み重なるかなんて、今はまだ考えなくてもいいじゃないか。

 

この365の数字を駆け抜けた彼らの存在が、何よりの証だから。まだまだきっと旅は続く。たくさんの夢と、青い春と、メロディを乗せて。

 

彼らの数字が、また積み重なる。パスポート片手に、次はどんな地に飛び出していくんだろうかと高まる期待に心が踊るよ。

 

なにわ男子結成1周年、本当に、おめでとう。

全身全霊の愛と、心からの感謝をこめて。

たくさんの夢、叶えていこうね。

 

 

 

 

"防振ボタンを押してみれば眺望絶佳の苑を知る"

 

(宜しければタイトルを「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」のリズムでご唱和ください)

 

"防振ボタンを押してみれば眺望絶佳の苑を知る"

(ボウシンボタン ヲ オシテミレバ チョウボウゼッカ ノ ソノ ヲ シル)

 

いきなりどうしたんだ?という方もいらっしゃると思いますが、文明開化という言葉について簡単に調べてみると

《文明開花》

人間の知力が進み世の中が開けること。特に、明治初期の思想・文化・社会制度の近代化や西洋化をいう(___大辞林第三版より)

というような説明がありました。"散切り頭を~~(略)"は歌の一節で明治になると生活は近代的なものに急速に変化していったことをあらわしています。

 


これを踏まえて、先ほどの文に意味をつけていくと

 


《防振ボタンを押してみれば眺望絶佳の苑を知る》

双眼鏡の防振機能によりえられた目の前の鮮明な景色に触れ感動するさま。

 


とでも言えるのかもしれません。

かいつまんで言えば、これから書くことは、「防振双眼鏡(レンタル)をはじめて使ってみた」というお話なのです。(つまり本題はこちら)

これだけに話の焦点を合わせたかったのですが、使用した現場でさまざまなことがあったためいくつかのお話が混ざるかもしれませんが、さっそく進めていきたいと思います(!)

 

 

 

【防振双眼鏡を使おうと思った経緯】

応援してるアイドルは関西ジャニーズJr. なにわ男子の西畑大吾くんです。

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↑むぎゅうっとかわいい彼ら7人がなにわ男子です。西畑大吾くんは色の子です(憧れの先輩は二宮也くんと大忠義くん)

 

今の手持ちの双眼鏡は、Hinode 5x20-A4(現在販売終了)。使用年数は約4年。

双眼鏡 ヒノデ 5x20-A4|双眼鏡にこだわるあなたに、日の出光学

5倍って倍率は低いのでは?と思うかもしれません。

しかし、購入当時のわたしはどんなに遠くにいても大好きな人だけを眺める自担ロックオンタイプよりも、舞台全体もみたいタイプのおたくであったことや、使う場所が主にアリーナやドームよりも小規模の会場が多かったことなどを考えるとそこまで高倍率の双眼鏡ではなくてもよかったのです。

それよりも、この双眼鏡の強みともいえる"視界の広さ"や"明るさ"、"片手でも大丈夫な軽さ"をとり購入した記憶があります。実際、松竹座ではこの双眼鏡でわたしは満足していました。大体3階席でのぞくと、センター中央にいる西畑大吾くんの全身がすっぽり視界の円に収まるようなイメージです。

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こちらのように、他のメンバーとわちゃわちゃしているのがこんな風に見える感じです。(画質が粗いですが実際はもっと双眼鏡では鮮明に見えます。あくまで見える範囲の点で参考にしていただけたら。)

 

そんなわたしがなぜ今回防振双眼鏡に手を出してみたのかと言いますと、大きな理由が2つ。

1つ目は、コンサート会場が大きいこと。関西ジャニーズJr.が公演をよく行う大阪松竹座の座席数約1,000席に対して、先日行われたSnowMan・TravisJapan・なにわ男子の合同公演「ジャニーズ IsLAND Festival」会場のさいたまスーパーアリーナは最大の収容人数約37,000人と言われるほどの場所。今までの双眼鏡はとても太刀打ちできないなあという不安が頭をよぎりました。

2つ目はおたくとしての自分の変化です。ダンスナンバーに限らず、西畑大吾くんを双眼鏡で追いかけその一瞬その瞬間の表情やパフォーマンスを目に、記憶に、焼きつけたいと思うことが多くなりました。コンサートのダイジェストが全てではないけれども残るようになり、綺麗な映像で舞台全体をあとから見ることができるようになったことが自担ロックオンタイプの傾向にあるおたくになった要因にあるかもしれません。

 

 

【防振双眼鏡のレンタルがあることを知る】

頭の中には"防振双眼鏡"がちらついていました。しかし、買うにはなかなか手が出しにくいと個人的には感じるお値段。たとえ買えたとしても相性の善し悪しによっては満足できないのではないだろうかと頭を悩ませていました。

 

そんな時でした。防振双眼鏡にレンタルがあるという情報を得たのです。おたくの性とでもいうのでしょうか、とりあえずいくつかのサイトをチェックし今回利用したのが「ミルック双眼鏡レンタル」です。

ミルック双眼鏡レンタル - milook | 防振双眼鏡をお安くレンタル!

ミルックを選んだ理由は、以下の通りです。

◌1日から利用できる

→短期利用でも長期利用でもニーズに合わせて対応してもらえるありがたさ。なおかつリーズナブル。

◌サイトの説明が非常に丁寧でわかりやすい

→見ればわかる。おたくに優しい。イラストや画像もあって見ているだけでも楽しいです。

◌申し込みから返却までの手続きが簡単

→利用開始日の前日に届き(時間指定可能・宿泊ホテルに配送も可能)、中身を確認、利用したら送られてきた時の箱に戻してコンビニで着払いで持っていくだけです。電池や返却時に必要な梱包用テープや記入済の発送伝票も入っていました。

 

ちなみに、今回選んだのはCanon 双眼鏡 10×30 IS Ⅱ と呼ばれるもの。防振双眼鏡といえばこのイメージが強いのではないかと思われます。

Canon 双眼鏡 10×30 IS ? BINO10X30IS2

Canon 双眼鏡 10×30 IS ? BINO10X30IS2

 

ビクセンのものとも迷いましたが、視界の広さやクリアさを重視した結果Canonの10倍に。

余談:当初は25日のみ公演に入る予定だったので1泊2日で予約していました。しかし、急遽友人から誘いを受け2日間入ることになり、予約を2泊3日に変更できないかメールで利用の1週間ほど前の夜に問い合わせたところ、次の日の朝には2泊3日の予約に変更可能ですと対応していただきました。迅速で丁寧な対応が素敵だなあと感じたエピソードです。

 

 

【ついに防振双眼鏡を使ってみた】

今回のジャニーズ IsLAND Festival(5/25~5/26)は当日まで座席がわからないデジタルチケット。大阪松竹座に慣れ親しんだおたくの苦手なデジタルチケット...でも、今回は防振双眼鏡という心強い味方がいる!という強い気持ちで25日の夜公演と26日の公演に入った座席はどちらもメインステージ最下手寄りの200レベル。

 

もともと5倍の双眼鏡を使っていたからもちろん防振機能がはたらくボタンを押さなくても遠くまでみえる~~!と開演前はわいわいしておりました。

いよいよオープニング映像が終わり遠くのセンターステージ天井にはSnowManのメンバーが。防振双眼鏡のお力はいかがなものかとボタンを押しました。

 

なんとまあ...。身に纏う衣装の繊維や素材感までわかるんじゃないかと思ってしまうほどの鮮明さ、目の前にはきらきら光に照らされるSnowManさん...高画質だのブルーレイだの、使う前までは防振双眼鏡をお持ちの方の言葉がいまいち理解できなかったけれど今ならわかる。防振双眼鏡おそろしや。

 

ほええ...と双眼鏡のぞいていると、いよいよなにわ男子の出番が。

"防振ボタンを押してみれば眺望絶佳の苑を知る"

観ている世界が急速に変わります。ここは...桃源郷...?と思わずにはいられないほどの景色でした。当時のわたしをさらっと振り返ってみますと

なにわLucky Boy!!の西畑大吾さん、このステージ(さいたまスーパーアリーナ)を指さして、「このステージで輝くよLucky Boy」、いい笑顔でした。関東初陣への熱い想い、なにわ男子の力強さ等々を感じられる瞬間。

→離れていても目の前に感じられるだいすきなアイドルの笑顔、最高でした。

なにわ男子がバンバンッ!!で会場全体を煽り盛り上げるとペンライトが同じように綺麗に揺れるの、多分主に兄組中心にマイク通して会場にタイミングの声かけながら熱気を起こしていたし、外周のリフター上で揺れる足下も気にさせないで笑顔で撃つなにわ男子の皆さま仕事人

→大吾さんからはかなり遠い位置でしたが他のメンバー含めて綺麗なお顔も楽しそうな表情もばっちり見えました。

パン食いビーチフラッグ競走 大吾さんだ〜~!頑張っt.......っていい終わる前に、見事な俊足とパンをジャンピングキャッチでほぼ一発で仕留め走り去る姿は、目がきゅるきゅるのチワワじゃなくってあの時ばかりはセターとかテリアとかそっちだった(そっちとは)

→ 俊足の自担を追いかけるにも最適です。

運動会最終対決に負けてしまいりゅちぇを励まし、自分はちょこんとバクステで正座しながらセンターステージで歌うとらさんを見つつ、ゆるゆる踊る大吾さんがまるでゆるキャラ。最終的には乙女座り。かわいいんですが。。。

→今まで使っていた双眼鏡では見えなかったであろう距離でもこのかわいさを眺めていられます。

硝子の少年終わる前にスタッフさんが下から小さなカゴに次に使う用具を入れてJr.の足下にセットするんだけれど、荷物受け取ったあとにちゃんとカゴを優しく手渡してスタッフさんがしっかり受け取ったのを確認してから移動する大吾さんがわたしのすきな大吾さんだった

→すきが溢れだす瞬間もブレずに記憶に残ります。

 

というように、ブレないことの素晴らしさを体感しました。なかでも「アンダルシアに憧れて」の西畑大吾さんが至高だったことをここに残しておきます。

アンダルシアに憧れての西畑大吾さん×椅子×ハットでしんどいのに、帽子の被り方から目線、表情、仕草、踊りの躍動感までどこをみてもどこにいても惹きつけられたよ...他のファンの方にも是非とも一瞬でいいので視界にいれてみてほしいと思う表現力

アンダルシアに憧れての椅子に座る教祖さまに負けないくらいのオーラを放つ帝王西畑大吾さん(いや、ニシハタダイゴ様)もしんどかったんだけれどシルエットが分かる黒いパンツが.......大吾さんの脚は雄鹿だった、美しかったのよ。息をするのを忘れたもの(?)

(もしも映像化されたならば是非ご覧いただきたい)

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↑目に焼きつけたい魅せ場、防振ボタンを押してみれば

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↑激しい動きがあろうともこんなにもくっきりと目の前で体感できるのです。実際もっと綺麗に見えると思います。(参考イメージモデル:ダイヤモンドスマイルの西畑大吾さん)

 

 

【使ってみた重さや大きさは?】

重さ:本当に重いという話を聞いていたので筋肉痛覚悟で持っていましたが、2日間持っても筋肉痛にはなりませんでしたし、そこまで重たいとは思いませんでした(個人的な感想)。ここだけの話、コンサートの2日前に左手を負傷(ぽんこつすぎる)し、人差し指包帯ぐるぐる巻きの片手だけでもかなりの時間持てました(!)※防振ボタンをずっと押しておけるように、押しっぱなしバンド*1を付けていました。

ただ、2日目の終盤は疲労が蓄積してきたこともあり首に若干負担がかかったのでストラップを自分に合ったものに変えるのもいいかもしれません。

 

大きさ:こちらもかなり大きいという話を聞いていたので防振双眼鏡が手元に届いた時に恐る恐る箱を開けて手に取りましたが、こちらも想像よりは大きく感じず、しっかり持てるフィット感がいいなあと思いました。

 

明るさ:10倍で防振、明るさは...?とこれは使うまでわかりませんでしたが、一言で言えば明るいです。暗くてもスタンバイするところまでちゃんと見えます。裸眼より明るく見える時もあるかもしれません。おかげでアンダルシアを堪能出来ました...。

 

視界:双眼鏡をはじめに視界が〇の範囲におさまるように調整すると思います。が、最小の幅にしても綺麗に視界が〇の範囲にはおさまりませんでした...が、使っていく公演中に慣れたので気にならなければ問題ないかなあといったところです。

 

 

【困ったことはあるか】

少し話がそれるかもしれません。これは個人的な悩みですね。

自担ロックオンタイプ傾向になりつつありますが、盛り上がる曲や楽しい曲ではうちわを構え、ペンライトを振り一緒にだいすきなアイドルと楽しみたいのです。双眼鏡をただひたすらに構えているファンよりも、一緒に盛り上がるファンと素敵な空間をつくりたいとタレント側も思うのでは......と。しかし、防振双眼鏡で表情もみたい、遠くにいるだいすきな彼をみたい、でも両手がふさがるなんてこった...と頭を抱えそうな場面が度々ありました。過去にもたくさんありました。みなさん、どうしているのでしょうか...?ぜひご意見あればいただきたいです。今のところは双眼鏡を持ちたければ基本片手、ペンライトを振るのをあきらめるか、うちわを持つのをあきらめるかといく苦肉の策(?)をとっています。

 

余談2:なにわ男子の出番で防振双眼鏡はもちろん使いました。素敵な景色が記憶に深く刻みこまれております、大満足です。しかしさきほど述べたように、ファンとして素敵な空間をつくる一人でありたいという思いがありました。だからこそ、他グループの出番の時に余裕を持って防振双眼鏡を使ったりスクリーンを見る時間があったりしているうちに、予想外なところで目を奪われることもあるようです(個人的に)。

雪白の月の時には歌唱力に定評のあるであろう方々の歌声に浸りながらモニター観ていたら、世界の色が消えてしまった悲しみのような表情になんだか思わず惹かれた。松倉海斗くんなんですけれども。今までとらでは別のメンバー中心に観ていたけれどあの瞬間を境にとらの時は松倉海斗くんロックオンしてた。

『至るとこにばらまかれた ふたりの抜け殻』はもちろんなんですが『さようならと言われるよりも言う方がきっとツライ』あたりでモニター(スクリーン)に抜かれた松倉海斗くんの表情が忘れられないって話をお世話になっている先輩にご相談したら"それはね、恋だ"って言われた、コイ...koi?(戸惑い)

今このタイミングで堕ちるか否か。今のところ堕ちきってはいないと思っております。ただ、表現者として魅せることのできるつよさが眩しいなあと感じているところです。こうして振り返っているうちにコンサートの松倉海斗くんのことを思い出して戻れなくなるキケンな匂いを感じているので結びに入ろうと思います(!)

 

 

【さいごに】

不思議なタイトルからはじまり、長々とした文章になり、話がそれても、最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら拍手したい気持ちでいっぱいです。

今回利用させていただいたミルックさん、夏もまた利用しようと思っています。(どうかJr.の東京ドームと松竹座の少年たちのチケットが舞い降りてきますように...)いずれはお金を貯めて自分用の防振双眼鏡買ってもいいかなあと。なかなかだいすきなアイドルを観る回数を重ねるのは生活との都合を考えると難しくなってくる。だからこそ限られた時間でその空間を最大限に楽しむツールとして防振双眼鏡にお金をかける価値はあるのではないでしょうか。

レンタルは申し込みから返却までの手続きが簡単にできたので、気になる方はぜひチェックしてみてください。

 

以上、防振の機能ってすごいんだなあ〜というとあるおたくの体験記でした!

 

なにわ男子 と 西畑大吾くん のお名前だけでも覚えていっていただけたらうれしいなあという思いで締めさせていただきます!それでは。

 

*1:お弁当バンドに厚みのあるボタンを付けて押しっぱなしになるようにしました。インターネット検索するとさまざまな押しっぱなしバンドが見られます