ひっくりかえした、宝箱。

この瞬間、きっと夢じゃない 。

きっとそこは夜明け前だったんだと思う。

 

 

きっとそこは、夜明け前だったんだと思う。

 

そこってどこ?ってなるだろう。

わたし自身、正直あまり覚えていないのだ。

覚えていないというよりも、白い紙を真っ黒に鉛筆で塗りつぶしたような感覚に近いのかもしれない。

 

いつかは書き残しておこうとおもったこの続きを、書いてみようと思う。

 

kii-kmpt.hatenablog.com

 

 

ちょうど1年前くらいの、肌にじっとり蒸した空気がまとわりつくような暑い日に、

パニック障がいと診断されたことは、覚えている。

当時社会人2年目のわたしには、あの子(パニック)をコントロールするような知識も術もなかった。

診断はパニック障がいだったけれど、適応障がい*1の傾向もあるため、まずは休職してストレスの原因から離れた方が回復が早いかもしれないと主治医に言われ休職し、実家の田舎に帰省した。

 

 実家に帰省してその数時間後には熱を出し、PCR検査をした。結果は陰性だったけれど、正直もう身体もしんどかったのかもしれない。

食べられないうえに、動けず、2週間ほどは布団の上からほとんど動かなかった。というより身体を動かす体力が底をつきていた。幼少期から身体を動かすことが好きで、高校時代までは運動部だったなんて信じられないほどである。

ひたすらこの頃は実家の猫と寝ていた。

寝たくて寝ているというよりも、薬の副作用で眠くて仕方なかった気がする。

 

そこから少しは動いたらと母にと言われ、家にあったウォーキングマシーンで10分歩くもまあへばってしまう。

身体は火照って、手足は冷えて、冷えのぼせ。冷え性の究極らしい。そんなところは進化しなくていいので早く症状が回復してほしいと思っていた。

 

そこからは月に2回の通院と1カ月に1回の産業医面談のために日帰りで都会に行った。新幹線も電車も乗っていることが耐え難く、ひたすら目をつむって耐えていた。面談の話も頭には入ってこないし、ふらふらするし。

誰かの話を聴くことが好きで得意だったのに、それさえも失ってしまったような失望感があった。

 

 パニック障がいといっても、個々に症状は異なる。

わたしの場合、主に夜に心中がざわつき不安になったり、身体的な痛みがどんどん脳内で膨れ上がるような恐怖感があったり、喉が詰まった感覚から息苦しさを覚えてパニック時の記憶がよみがえったり。

特に聴覚過敏になった。大きい音はだめ、音楽も聴けない、換気扇の音も、救急車のサイレン音も、風も、人の声だって、全てが鋭い針で突き刺されて熱い痛みが走るような感覚に襲われてしまう。

死にたいとは思わなかったけれど、生きていても、くるしい しかなかった。

 

前はおいしく食べることが大好きだったのに、何が食べたい?って聞かれても、食べたいものなんて浮かばないし、食欲はないし、食べてもすぐにお腹いっぱいになってしまう。この頃は、母を食事のことで怒らせてしまうこともあったし、わたし自身なんで食べられないのかわからなくて、そんなことも悲しかった。

 

正直、人が抱えている生きにくさは、他の人にはわかりにくいんだと思う。

だから生きにくさっていうのかなと考える。

隅々まで理解してほしいとは言わないけれど、ただ、否定しないでほしかった。

むずかしいんだよね。お互いに。

 

病気になって、この頃のわたしは特にこどもっぽかった。よく泣くし、いらいらしたり落ち込んだり、わがままいったり。

だから、ごめんねって母に謝った。そしたら、子どもの頃は手がかからなかったから、今はその分手がかかってるだけじゃない?なんて笑ってた。

前述した食事量も、母が少しずつ調整してくれたり、時には一緒に料理もしたりするうちに、以前の半分くらいまでは食べられるようになった。

なんだかんだ、母は偉大だなと思う。

 

休職して3カ月は、動くパワーに余力がつくまではしてみたいことしかしなかった。晴れた日に散歩して、猫と遊んで、母と料理をつくったり、手芸をしたり、庭でブルーベリーを摘んでジャムにしたりハリーポッターの小説を全巻揃えて読み返してみたり。

 

 実際、わたしの務める会社は2カ月欠勤扱いをしてから休職なので、10月からが休職扱い。そこから入社してそこまで時期の経っていないわたしの復職までの期限は3カ月が目安。とりあえず、体力だけでもやや回復してきたので、ひとり暮らしの環境にも戻して負荷をかけたらどうなるか様子をみて復職するか判断することになった。

 

産業医面談では、自分のベストが10だとして、8か9にならないうちに復職するとまた休職する人が多いと聞いていた。休職して3カ月のわたしはこのとき4だと答えていた気がする。

カレンダーアプリに発作や発作の予兆、体調不良などを記録していたのだが、当時は毎日何かしらの不調があったようだ。だいたい夕方から夜に発作の予兆を感じている記録が多い。

 

いきなりひとり暮らしの環境に戻すことは大変なのはわかっていたので、2週間を目安に往復していた。

実家のメリットは誰かがいる安心感、デメリットは生活音が負担なこと。

ひとり暮らしのメリットは自分だけの時間があること、デメリットは負荷が大きいこと。

どちらを選ぶのもなかなか難しい選択だった。今の会社に復職するならばひとり暮らしの環境で、実家に帰れば職を探すのが大変である。お金がなければ生きていくのは難しい。しかし、症状はまだまだ改善の兆しが見えないと悩んでいたのが11月上旬。

 

そんな時期に、大学時代の先輩であり、お世話になっている方から連絡があった。

気晴らしに地元においでよと。

正直やや長い時間乗り物に乗れるかわからなかったが、先輩に会いたい一心でその月の下旬に2泊3日の旅に出た。

身に凍みる寒さも吹き飛びそうな迫力ある山々が出迎えてくれた先輩の地元は、私の地元とはまた違った自然のよさがあった。

城下町を散策し、食事もし、たくさん話をした。

先輩は、ただただ聴いてくれた。

ここには書かないが、先輩もわたしと似たような経験をしていた。

旅行中に発作っぽくなれば落ち着かせてくれたし、極め付けには、わたしが迷惑かけてしまうかもしれないと謝れば「大丈夫、ほっておくから(気にせず休みなさい)」と。

目から鱗とはこのことかもしれない。人に寄り添うって、かまうだけじゃないんだと。先輩はいつまでもわたしにとって憧れの先輩である。

 

あおい空気を肺に流しこんで、みずみずしい食物を血に変えて、

ぐるぐる体内循環させた、この旅。

喉にひっかかっていた言葉が零れ落ちていました。

 

仕事、やめてもいいのかなあ。と。

わたし、こんな環境に身をおきたい。と。

 

この旅で得たことは色々あるけれど、

今あるものにしがみつかなくてもいいと思えたということ。これが大きい。

 

そんな旅を経験して迎えた2021。

相変わらずウイルスは猛威を振るっているし、季節は新春。

ここら辺から、自分のなかで考え方が変わってきているなとnoteの文章なんかをみると思う。

自分は代替できない存在で、もっと自分を大事にして生きていきたいと記してある。

誰かのために役に立っている事実でしか自分のことを認められなかった自分にとっては大きな一歩。

 

今年の1月中旬、私は会社に呼び出された。

今後の話し合いである。

正直、ここで退職の勧めを受けるのかと思っていたし、そのつもりだった。

しかし。会社が提示したのは、よかったらまだ一緒に働きたいと。若いし先は長いのでもちろん強制はしないが、ゆっくりで良いので復職の準備を進めますか?と。

 

前述のように、わたしは仕事をやめてもいいかなと思っていたので、固まってしまったが、何をするにもお金はあった方が良いし、実際まだ一緒に働いてみたいと思う先輩方がいらっしゃったので、断る理由は少なかった。

 

 そんなこともあり、復職してからは新しい部署に同期よりも一足はやいタイミングで仮配属になった。

配属時の部署長は人事がお前が(病気のため)拠点に配属できないって悩んでいたから俺が拾ったが失礼かもしれないが俺はラッキーだったと思っているとよく言っていた。

どうやら以前別の業務で仕事をした際に褒めていてくれたらしい。知らないところでも見てくれている人はいるんだなとありがたく思った。

 

もちろん、復職してからもパニック障がいはおさまったわけではないし、在宅勤務に難を示す上司もいらっしゃらなくはないし、薬も飲みながら、生活にも気を配りながら過ごしている。

 

あの先の見えない昏い闇から一年。

とある小説を読んだ。

帯にこんな言葉が書かれている。

 

知ってる?夜明けの直前が一番暗いって。

 

今、わたしが間違いなく言えることは、

パニック障がいになって辛いことがたくさんあったけれど、それがなかったら今、わたしはこんなに世界に対して光を感じていないということ。

少しずつ、少しずつだけれど、わたしの今見える景色はあかるいです。

 

長くなってしまいそうなので、とりあえずここまでにします。

取り組んだこととか、今の生活とかもかまたかけたらなあと思います。

 

最後までよんでくださったあなたが、明日を明るく迎えられますように!

 

 

*1:日常生活の中で、何かのストレスが原因となって心身のバランスが崩れて社会生活に支障が生じたもの。原因が明確でそれに対して過剰な反応が起こった状態…厚労省HP